産業革命以降、長いあいだ「成長」と「幸福」は同じ意味を持つものとして信じられてきた。
より高く、より速く、より豊かに。
努力すれば報われ、進歩すれば幸福が訪れる。
この考え方は、近代社会を支えてきた大きな物語であった。
経済は拡大を続け、技術は進化し、国家も個人も「成長」という言葉を旗印に歩んできた。
けれども、私たちは今、その物語の転換点にいるのかもしれない。
経済が成熟し、人口が減少し、技術が極限まで進歩した今、
暮らしは便利になったが、その裏で時間は失われ、孤独は増えている。
「もっと良く」「もっと上へ」という欲望は、しばしば人を疲弊させる。
成長が止まることを恐れ、停滞を恥じる社会。
その内側で、私たちはいつの間にか「成長=幸福」という方程式を信じ込んでしまった。
大学で最初に与えられた課題は、木材で椅子をつくることだった。
テーマは「80年の椅子」。
80年という時間をどうデザインに込めるか。
今振り返っても、その問いの意味を完全に理解できてはいない。
ただ、課題文の中にあった「人は成長し、そして衰退する」という一文が、
当時の私には驚きとして残っている。
考えてみれば当たり前のことだ。
人は成長すると同時に、必ず衰えていく。
それを自然な変化として受け入れる感性を、
私はその頃まだ持ち合わせていなかったのだと思う。
いつのまにか「より良くならなければならない」という恐怖症にかかっていたのかもしれない。
成長も衰退も、ひとつの変化であり、過程である。
住宅の世界もまた、この「成長の神話」の中にあった。
より大きく、より新しく、より性能の高い家。
ローンを組み、郊外に土地を買い、家族とともに「住宅すごろく」のあがりを目指す。
そこには一貫して「成長する人生」という理想像が描かれてきた。
だが、ふと立ち止まって考えるとき、
「あがり」に辿りつくまで幸福ではないのだろうか。
そして、あがった後に本当に幸福は訪れるのだろうか。
借家でも幸福な暮らしはある。
小さな部屋でも、心の通った生活はある。
むしろ、限られた空間の中で工夫し、季節を感じ、
身の丈に合った時間を生きることの中に、
成熟した喜びが潜んでいることもある。
それは拡大を前提としない幸福——
つまり、「成長しない幸福」である。
自然は永遠に成長し続けない。
植物はある時点で成長を止め、そこから成熟の時間を生きる。
暮らしもまた同じだろう。
家を持つこと、借りること、あるいは手放すこと。
それぞれに、その人の時間と必然があり、どれも幸福のかたちたりうる。
樹木は限りなく伸び続けることを目指さない。
やがて枝を止め、花を咲かせ、葉を落とし、静かに循環する。
私たちはその大きな輪の中で、「成長」という一場面だけを見つめてきたのではないか。
成長もまた、変化の一相であり、持続のリズムの一部にすぎない。
人の暮らしもまた、そのリズムの中でこそ深まるのだと思う。
建築は「変化」を包み込む器である。
新築や性能の向上だけでなく、時間の経過を受け入れること。
木の色の変化を、劣化ではなく“成熟”として見る感性。
そうした価値観の転換が起きてるように思う。
幸福と成長は、必ずしも一致しない。
経済の成長が止まり、社会の価値観が日々変化する今、
家づくりもまた、終わりのあるすごろくから、終わりのない物語へと向かうべきだろう。
つくることだけに執着せず、暮らしそのものを肯定する家。
「成長しなくても、幸福でいられる」——
その静かな確信を、私は信じたい。
