家の中には、リビングや寝室のように名前のある場所がある。
けれども、名前のない場所にこそ、暮らしの自由が生まれるのかもしれない。
建築には、名前のある場所によって部屋が区切られる。
リビング、寝室、キッチン。
それによってその場所の使い方を規定している。
名前はその部屋での行為を意味している。
名前と意味は一体的であり、私たちはその名前によって、
その空間でのふるまいを無意識に決めている。
けれども子どもが遊ぶ姿を見ていると、
そうした名前や意味など、まるで関係がないように思える。
どこでも遊び場になり、床も、廊下も、窓辺も、彼らの世界の一部になる。
大人はつい先回りして、遊び場を限定しようとするが、
子どもにとって空間は、まだ名前を持たないまま開かれている。
リビングにはテレビとソファがある。
けれども、そこで人はじっと座ってテレビだけを見ているわけではない。
横になったり、荷物を置いたり、話をしたり、
ときには子どもが駆け回り、
一つの部屋の中に無数の行為が重なりあっている。
それらを抽象化し、便宜的に“リビング”と呼んでいるにすぎない。
建築には、余白のような場所が必要だと思う。
それは名前のない場所。
使い方を決めつけない場所。
子どもが寝転び、本を読んだり、
誰かが腰掛けて外を眺めたりできるような、
意図のあいだに生まれる空間だ。
その曖昧さが、暮らしをやわらかくしている。
設計において、意味と機能で図面を埋めることではないと思う。
意味と機能の隙間、名前のない場所にこそ、人の時間が滲む。
建築が生きるのは、そうした“間”の中なのかもしれない。
